子どもをありのままに育てる怖さ
新学期シーズン必読。混迷する教育現場の原因を探る。
◆「ありのままに育てる」怖さ
日本には「草木を育てるように子どもを育てればううまくいく」という思想があり、かなり根強い支持がある。確かに、そういう考えは気持ちが清々とする。日本の伝統的な発想とされる「自然」(「自然」の反対は「作為」であり、政治学者・丸山眞男の概念)という考えである。親や教師が変に子どもの成長に手を入れるからいけない、子どもは「ありのまま」に育てればいいという。
たとえば、「夜回り先生」として名高い水谷修さんは日本中で公演しているが、その骨子は子どもはそれ自身でもともとすばらしい可能性があるのに、親や教師やおとなたちが適切に見守ることができないので、うまく開花しないのだというものである。これはほとんど戦後の革新思想、戦後民主教育の思想である。水谷さんは子どもは自ら「育つ」ものだと考えている。花や木を育てるようにきちんと見守ってやりさえすれば、必ず自分で開花すると信じている。親や教師はどうしていいかわからない。(中略)
ひと(子ども)は文化的存在にならなければならない。人類の歴史がどのように形成されてきたかをある程度知らなければならないし、社会がどのように形成されているか、みんなが守るべき法やルールや道徳を理解しなければならない。個人は社会とどうつながるべきか、社会で個人が生きていくためにはどのような関係と構築すべきかを知らなければならない。そういう多面的な力量を持って初めて近代的な個人の資格があるというべきであろう。人間に生まれれば人間になれるわけではない。
つまり、ひと(子ども)は生まれてすぐにひとになるが、近代的な人間の条件は満たしてない。長い保護と教育の時間が必要である。ひとになるためには意図的な教育(「作為」)を受けなければならない。ひと(子ども)は自ら「育つ」ちからは持っているが、それに外部から教育的なちからを加えなければ作動しない。でなければ、近代的な人間にはなれない。だから、子ども(ひと)は「創られる」のであり、そのためには「作為」としての多面的な教育が必要とされるのである。
<『尊敬されない教師』より引用>
- 1
- 2